「…え…」
「焼香。次はそなたの番であろう」
「あ、兄上…」
信勝がやや狼狽がちに呟くと、信長はふっと勇ましい微笑を浮かべた。botox眉心
そのまま彼は静かに踵を返すと、やるべき事はやったとばかりに、威風堂々と葬儀の場から去って行った。
千を越える人々が集まっているはず本堂の中は、まるで無人の如く、シーンと静まり返っていた。
まるで突として襲って来た台風が、一瞬だけ暴れて直ぐに引き返していったような…
何とも不可思議で心地の悪い感覚が、参列者の胸の中に油然と溢れているのだった。
信秀の葬儀の後。
彼が愛した幾人もの側室たちは、その菩提を弔うために、長く美しい黒髪を切り落として尼の身となった。
貴人の世における通過儀礼であるため、実際の比丘尼のように頭を丸めたりはせず、肩の辺りで切り揃えた“尼削ぎ”にするのだが、
側室たちの中にはまだ十代、二十代のうら若い娘たちも存在した為、未亡人を示すその短い御髪が、何とも言えない物悲しさを漂わせていた。
側室たちの落髪(らくはつ)を見届けた後、正室である土田御前も髪を下ろし『報春院』と称されたが、
家中では尚も“大方殿”と呼ばれ、先代信秀夫人、次期当主・信長の母として織田家の奥にて隠然たる力を持ち続けたのである。
そんな土田御前、改め報春院が、那古屋城の濃姫を訪ねてやって来たのは、
落髪の儀を受けてから間もない日の、小雨の降る午後のこと。
墨染めの衣を纏い、尼削ぎの頭を白い頭巾で覆った、慎ましやかな尼僧姿で現れた報春院(土田御前)は
「あの信長殿に、この織田家を継がせる訳には参りませぬ」
濃姫の前に控えるなり、厳しい口調でそう言った。
突然のことに濃姫も目をパチくりさせる。
「…義母上様、急に何を申されまする」
「急、どこが急なのです。私は以前にも、そなた様に申し上げたはず。
信長殿には自ら跡継ぎの座をご辞退していただきたいと。代わりにその座を弟の信勝に譲っていただきたいと。
あれほど口を酸っぱくして申し上げましたのに、もうお忘れになられたのですか?」
眉間に青筋を立てながら、静かに激昂する姑に、濃姫は慌ててかぶりを振った。
「いえ、そんな…。よう覚えておりまする」
「此度の大殿の死を受けて──いいえ、葬儀の場での信長殿のあの振る舞いを見て、私は、はきと心に決めたのです。
信長殿に家督は継がせませぬ。この弾正忠家を滅ぼさぬ為にも、
ここは何がなんでも、英邁で皆からの信頼も厚い信勝を、次の当主に据たいと思うておりまする」
姑の力強い宣言に、濃姫も一瞬返す言葉が見つからなかった。
事実、葬儀の場における信長の振る舞いは織田家中に大きな波紋を広げていた。
ただでさえ信長を廃嫡にして、信勝を後継者に立てようとする声が高い中で、あのような罰当たりな所業に及んだのだ。
清洲の信友を始めとする親類縁者らは、信勝を跡継ぎに推す声を更に強め、
数少ない信長の支持者たちも、既に幾人かは信勝派へと流れ始めていたのである。
濃姫も未だに、抹香を投げつけた信長の真意を測り兼ねていたが、夫の立場が今まで以上に悪くなったという事実だけは、皆と同じくらいに理解していた。
「お濃殿。どうか我らに力を貸してたもれ」
報春院は言いながら、濃姫の傍らへ膝を進めると、徐に彼女の手を取った。
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