信長は自信たっぷりに言うと
「…じゃが、思うようにばかり行かぬところが、蝮の親父殿の怖いところよ」
ふとその表情に陰りを見せた。
「頭の回る親父殿のこと、援軍派遣を口実に、美濃の者らに儂の動きを探らせ、
出陣した隙をついて、何万もの軍勢でこの尾張に攻め込んで来るやもしれぬ」
「そ、そのような事はございませぬ!父上様はあれでも情に厚きお方。botox眉心
一度お認めになられた者を裏切るような真似は決して致しませぬ!」
姫が語調を強めて言うと
「ああ、儂も左様に思う」
と、信長は笑顔で頷いた。
「案ずるな、今のは万一、仮にの話じゃ」
「……」
「ただ、そういった可能性も捨て切れぬ故、万が一にも親父殿がこちらの意を汲んでくれぬ時、
または誤った決断をなされようとした時に備えて、こちら側に立って説得に当たってくれるお方が必要なのだ」
「では、いざという時の説得役になって頂く為に、母上に文を書いてお願いしろと?」
「おお、なかなか察しが良いのう」
「……されど、何故にその役目が母上なのです?」
濃姫は不思議に思った。
正徳寺で一度会っているであろう道空ら重臣たちではなく、未だ面識のない姑に何故そんな事を頼むのだろうと。
すると信長は、薄い唇の間から白い歯を覗かせて
「小見殿の話ならば、親父殿も聞いてくれると思うたからじゃ」
と、語るまでもなかろうと言わんばかりの、勝ち気な表情で答えた。
「昨年の会見の折、親父殿が申しておったのだ──」
《 麓の館の庭にも、あのような紅椿が咲いておってのう。奥向きで育てておるのじゃが、色付きが今一つ故、この時期になると妻の小見が“色が悪い、色が悪い”と嘆くのよ 》
《 あれほど鮮やかに色付いた椿ならば、小見も喜ぼうものを 》
「…とな。 親父殿は顔に似合わず、奥方の小言にも黙って耳を傾けられるような、律儀で愛妻な一面がおありと見た」
「顔に似合わずは余計でございましょう?」
「似合わぬものは似合わぬのだから仕方あるまい。 …それに小見殿は、直接的に織田家とは関わりがない上、おなごの身じゃ。
殿御ならば寝返りを疑われるであろうが、小見殿ならば、例え援軍の派遣に賛成したとしても、
娘であるそなたの身を案じての親心として片付けられる故、咎めを受ける心配もなかろうと思うてのう」
信長の話を伺い、濃姫は一応の得心はしたが、彼女が夫に返したのは言葉ではなく華やかな笑い声だった。
「これ、何を笑ろうておるのだ」
「…いえ、いつもの殿らしゅうない、慎重なやり方をなされているものですから」
「何を申す。儂はいつも慎重じゃ」
「ですが私には、殿がいつも以上に気を張っておられるように見えまする。
ご家督をお継ぎになられてよりの、初めての今川氏との戦(いくさ)故、緊張なさっているのではありませぬか?」
濃姫に問われた信長は、眉間に皺を寄せつつ、その細目を限界まで広げた。
「馬鹿を申すな!今川など恐(こお)うはない! あやつらとは既に十三の年の頃に戦こうておるのだぞ !?」
「されどそれは初陣の折のお話にございましょう。それも諸所に火を放って戻って来ただけではありませぬか」
「…そ、それが初陣というものじゃ、致し方あるまい」
「此度が今川氏との初めての戦闘になる故、また小豆坂での戦(第二次)において信秀様が大敗を期しておられる故、
ご自分でも気付かぬ内に注意深うなっておられるのでしょう。 わざわざ母上を説得役に置くのも、ご不安の表れ──…」
「もう良い!」
叫ぶなり、信長は恥じ入ったような顔をして立ち上がった。
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